少し時間が撒き戻るけれど、先の日曜日、あきらの納骨を済ませてきました。 こういう形で亡くなった子はお墓に入るのではなく、水子さんとして弔われるのが普通みたいです。 だけど、うちの子についてはお父さん、お母さんの厚意で家族墓地に入ることが出来ました。 元々話はでていたそうなのですが、今回の件にあわせてお墓を造って貰った為、少し時間が経ってしまったけれど、いつか私や旦那が逝く時にあの子と同じところで眠る事ができます。 そんな風に取り計らってくれた旦那側の両親には感謝の言葉もありません。 場所は高尾。車でだったら案外すぐに行ける距離です。 当日の現地はサクラが満開でした。 おさめる前の遺骨を抱いて、満開のサクラの木を見上げていました。 実際にあの小さな子の目にサクラが映る事は一度もなかったけれど、きっとこの景色を気に入ってくれるんだろうなぁ、なんて思ってました。 新しいお墓は開眼供養というものが必要なんだそうです。 そのお経もあわせて行っている間、なんとなく右肩の上にあきらを感じていました。 ううん、その日はずっと近くにあの子がいたような気がしていました。 お墓を開けて、まだ何もない真ん中に墓地の人があきらの小さな骨壷を置く時には、その横で「ここ?」って覗き込んでいるような気がしたし、お経の間も私と旦那の間で首傾げながら聞いてたり、墓石の上に座ってみたりなんてやってるような気がしました。 ……なんだか可笑しいよね。 本当にはそこに居ない子なのに、極当り前のようにいるのがすんなり受け入れられる。 もしかしたら、こんな風に自分の子を埋葬しなきゃいけない親はみんなそんな風に感じるのかもしれないね。 お経も終わって、さぁ帰るぞって時になって、なんだか涙が出てしまって困りました。 悲しいとか、淋しいとか、そういう感情がもう抜け落ちてしまっていて、ただ、ただ、勝手に涙が出る。 泣きたいわけでもないし、一緒にいるお母さんとかを困らせたいわけでもない。 なのになかなか泣き辞めなくて自分自身が途方にくれてしまった。 そんな間、ずっと付いててくれたのはお母さんでした。 結婚して10年近く経って本当に今更だけれども、この1年ぐらいの色々な出来事でやっと旦那の実家とも家族なんだって実感がわいたように思う。 人付き合いの下手な私に、あきらが残してくれたもの、なのかな。 日記が止まっている間。色々なことがありました。 旦那側のお父さんが入院されたり、うちの父のことでかなり本気で悩みこんでしまっていたり、私の仕事の方でも大丈夫なのかなぁ?って心配になるようなことがあったり、例年のように花粉症と闘ってたり、本当に色々。 納骨の一週間前には、位牌のかわりにちょっと大きめの水晶を買って来たりなんてこともしていました。 位牌なんて形をとってしまうと、仰々しくて、それにもし養子を貰うなんて事になった時にその子が「自分は身代わりじゃないか?」って悩む切欠を作ってしまいそうで、あれこれ考えたけれど綺麗な石をかわりに置くことにしました。 昇仙峡の石がいっぱい売っている店をいくつも見て歩いて、どことなくハートっぽい形の透明な水晶にしました。 なんとなくあきらが「これ、私の。」って抱きこむようにして頬ずりしてるイメージが沸いたりで結構気に入っています。 遺骨が目に見える所になくなってしまったけれど、そこについては思ったよりも平気みたい。 こうやって日記に書き始めると、またぽろぽろ涙は出てくるけれど、でも半分ぐらいは条件反射なのかな。 あの日とは違って、辛い苦しい涙ではなくて、透明な涙といったらいいのかしら。 覚えてるよ、忘れないよってただ教えてくれてるそんな感じです。 さて、気合入れなきゃ、だよね。 体力つける為にプール通いもちゃんとしなきゃだし、仕事も頑張らなきゃだし、大量に溜まってる素材生かしてまた何か作っていきたいし。 将来設計ももう一度立て直さなきゃ。 去年や今年の初めは色々あったけれど、この先は弟君が結婚するなんて明るい話もあるんだし、前へ前へとすすめる年にできるようにしたいな。 あきら、お母さん頑張るからね。 PR 忍者ブログ | [PR]
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